「ハレルヤ」ジェフ・バックリィ – 天使に魂を売った声に魅了される

たった1枚のアルバムで世界にその名前を残す人がいる。ジェフ・バックリィ(Jeff Buckley)。彼が生前に発表したアルバムは「グレース(Grace)」だけだった。1994年の9月。発売した当時はそれほど注目されなかった。しかし、幾多の有名ミュージシャンから絶賛を受け、その切なく美しい歌声から「天使の歌声」と評価されている。

そんなアルバム「グレース」の6曲目が「ハレルヤ(Hallelujah)」。カナダのシンガー、レナード・コーエンの作品だ。「ハレルヤ」とはキリスト教の聖書や賛美歌で使われる言葉で、「主をほめたたえよ」と翻訳されたりする神様への感謝の意味をもっている。お祈りのはじめに使われたり、一般的に嬉しいときなどにも使われる。

まさに「天使の歌声」と称されるにふさわしいカバー曲だ。

ローリングストーン誌が2011年に実施した読者によるアンケート「これまででもっとも偉大なカバー曲」では3位に選ばれた。原曲を超えるのではなく、それはまるでジェフ・バックリィのためにつくられた1曲のように感じる。

1997年、5月。ジェフ・バックリィはミシシッピ川で溺死した。事故死とも自殺とも言われているが真実は闇の中だ。年齢は30歳。セカンド・アルバムの製作中でだった。

ジェフ・バックリィの父、ティム・バックリィは1960年半ばシンガソングライターとしてデビューした。1970年代半ばまで、ある種カルト的な人気をもっていた。カルト的と呼ばれるのは、フォーク歌手としてデビューし、その後、サイケデリックな要素を取り入れたりファンクやジャズに傾倒していったためコアなファン層しか付いてこれなかったからだ。

ティム・バックリィは8歳のときに一度しか、父であるジェフ・バックリィと会っていないと言われている。その年、ティム・バックリィはヘロインの過剰摂取により28歳で亡くなった。

幼少期のジェフ・バックリィは、ピアニストでありチェリストでもあった母からの影響を大きく受けた。音楽的な素養は母から与えられたと言っていいだろう。父のDNA(実際、顔立ちはそっくり)と、母のつくった環境によってジェフ・バックリィという歌手が誕生した。

ジェフ・バックリィには、アメリカの小説や映画によく描かれる父と子の葛藤のようなものはなかったように感じる。8歳と言えば、記憶の片隅にしかない頃の話だ。当然だろう。もちろん、自分の声にエディプス・コンプレックスと似た感情を抱いていたのかもしれないけれど。

ロバート・ジョンソンは、なぜ、それほどギターが上手いのかという問いに「十字路で悪魔に魂を売る契約をして、それと引き換えにテクニックをもらったんだよ」と答えた。世に言うクロスロード伝説だ。

ジェフ・バックリィの歌声を聴いていると、身体の奥から言葉にできない「何か」が染み出してくるのを感じてしまう。単純に歌が上手いから……そういう類のものではない。もっと原始的な響きが、そう、細胞のひとつひとつが揺さぶられる。胸が痛くなる。そのまま命を失ってしまいそうなくらい息が苦しくなる。

凡人である私には「何か」を説明することはできない。

天使に魂を売った……そう考えるのはおかしいだろうか。悪魔は堕天使だ。元は天使だった。神に逆らい、天から追放された。人々を魅了する歌声と引き換えに、天使と契約した……そう感じてしまうのは変だろうか。

生と死、まさにその間に存在する天使の歌声が「グレース」には刻み込まれている。