天才ブライアン・ウィルソンの幻と呼ばれたアルバム「スマイル」

ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson)はザ・ビーチ・ボーイズ(The Beach Boys)の一員だ。この言葉に嘘はない。今もメンバーにクレジットされている。実質的なリーダーだ。ただ、ブライアン・ウィルソン自身とザ・ビーチ・ボーイズの印象はまるで異なっていた。

ザ・ビーチ・ボーイズの異端児ブライアン・ウィルソン

ザ・ビーチ・ボーイズのイメージは西海岸の夏っぽい、美しいコーラスのバンドだ。これは決して間違いではない。バンド名を直訳すれば「渚の少年たち」だし、曲名も「サーフィン・サファリ」「サーフィン・U.S.A.」「サーファー・ガール」「ファン・ファン・ファン」「ダンス・ダンス・ダンス」「ドゥ・ユー・ワナ・ダンス」「カリフォルニア・ガールズ」など。3枚目のアルバムでは、ジャケットで海をバックにサーフィンボードをお揃いの服を着たメンバーが抱えていた。

ブライアン・ウィルソンは、そんなバンドのなかで異端児だった。

ザ・ビーチ・ボーイズは1962年の夏がすっかり終わった頃にデビューアルバムを出す。それから、傑作「ペットサウンド」まで、スタジオ・アルバムだけでも1963年に3枚、1964年にも3枚、1965年にも3枚を発売した。重複した曲が収録されていたが、それでも、このペースは異常だ。

ブライアン・ウィルソンは3枚目のアルバムからプロデュースに手を出した。

「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれた音楽プロデューサーのフィル・スペクターに影響を受けたことがきっかけだった。ザ・ロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」がヒットしたのが1963年。翌年に、アンサーソング?的な「ドント・ウォーリー・ベイビー」を発表している。

ブライアン・ウィルソンは1964年の終わるころにはライブ活動に参加しなくなり、作曲、レコーディングに専念するようになった。引きこもりだ。スタジオ引きこもりだった。

そして、1966年に「ペット・サウンズ」を発表する。ブライアン・ウィルソンにとっては自信作だった。今でこそ、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」と肩を並べる傑作と評価されているが、当時のファンには受け入れられなかった。アメリカの大衆はサーフィンもクルマも出てこない、内省的な歌詞はそっぽを向かれてしまった。

幻のアルバム「スマイル」

ブライアン・ウィルソは「ペット・サウンズ」製作中にできた「グッド・ヴァイブレーション」の技法をさらに膨らませたコンセプト・アルバムを次作に考えいていた。しかし、アルコールとドラッグ依存に堕ち、精神を病んでしまったブライアン・ウィルソンに完成させることは無理だった。

それが幻のアルバム「スマイル」だ。

レコード会社によって発売中止となった「スマイル」はアルバム「スマイリー・スマイル」に数曲入れられたり、その他のアルバムなどに収録されたり、細切れにされた。ブライアン・ウィルソンにとっては屈辱的なことだったと思う。

ブライアン・ウィルソンは再度、引きこもった。今度は自宅だ。表舞台から姿を消した。1988年にソロ・アルバムを出すまで、およそ20年、ブライアン・ウィルソンは伝説というよりは幻の人になっていた。犯罪人類学の父であるチェーザレ・ロンブローゾが残した言葉……天才と狂気は紙一重の、まるでサンプルのようだ。

ルイス・シャイナーのSF小説「グリンプス」

1994年度の世界幻想文学大賞を受賞した、ルイス・シャイナー著作の「グリンプス」という小説がある。おそらく、タイトルはヤードバーズの同名曲か、USガレージのコンピレーションアルバム名から取られたのだろう。個人的には後者だと思っているが、作者の明確なコメントは見つからなかった。

あらすじはこんな感じだ。

主人公は冴えないオーディオ修理屋。ある日、ビートルズを聴きながら、もし後期の仲違いがなければ……と妄想していると、思った通りの別テイク「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」がステレオから流れてくる。妄想ではなかった。主人公は脳内で1960年代にトリップできる能力が自分にあることを知る。

そこで、超能力?をもった主人公は音楽界だけでなく歴史そのものを変えたかもしれない幻のアルバムの制作に直接、関わっていく。ビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ザ・ビーチ・ボーイズ、ジミ・ヘンドリックス。ザ・ビーチ・ボーイズが完成できなかった幻のアルバムとは「スマイル」だ。ブライアン・ウィルソンも登場する。

「スマイル」は1960年代に音楽好きだった人々にとって、幻……おそらく現実には叶うことのないアルバムとして認識されていた。

「グリンプス」は東京創元社から発売していた文庫本が長らく絶版になっていたが、2014年1月にちくま文庫で出版された。詳細な訳注や解説に、訳者の作品に対する思い入れを感じる小説だ。

37年の時を経て完成した「スマイル」

2004年、ブライアン・ウィルソン名義でアルバム「スマイル」が発売された。制作を始めてから37年が経っていた。ロック史上最も有名な未発表……という看板はこの年に下ろされた。

驚いたことに、2000年からスタートしていた「スマイル」全曲を含むツアーを元に、スタジオでそれを再現しただけで、レコーディングそのものは5日ほどで終わったそうだ。実に、あっけない結末だ。あれほど産みの苦しみで精神までおかしくなり、レコード会社にも呆れられ、バンドを分裂状態にし、約20年の堕落した生活を過ごしたというのに、たった数日で、それが完結してしまうとは……。

「スマイル」の原題はジャケットにもあるように「SMiLE」だ。なぜか、アルファベットがひとつだけ小文字になっている。「I」ではなく「i」だ。どうしても、それが「矮小化した自我」を表しているように思えてしかたがない。ブライアン・ウィルソンの意図を深読みしてしまう。考えすぎだろうか?

ブライアン・ウィルソンが「わたしなんて、ちっぽけなものなんだよ」と皮肉っぽく笑っているように感じてしまう。

「スマイル」は名盤でも迷盤でもない

ブライアン・ウィルソンが制作した最高の作品は「ペット・サウンズ」だと思っている。「神のみぞ知る」良質な、ポップという概念を崩した、金字塔的なアルバムという位置づけだ。音楽史に残る名盤であることに間違いはない。

「スマイル」は名盤でも迷盤でもない。

幻の作品を発表したことにこそ価値がある……というのは少々、的外れだろう。「伝説の」という形容詞に躍らされるのは面白くない。内容で評価されるべきだ。たしかにアルバム最後に収録された「グッド・ヴァイブレーション」などは美しく素敵な曲だ。ただ、なにかが物足りないと感じる。

もし、1967年に狂気の闇で、ブライアン・ウィルソンが初めに構想していた通りの技法で「スマイル」が完成し、何事もなく発表されていたら……どのような声がブライアン・ウィルソンの耳に届いたのか、どんなに綺羅びやかな音になっていただろう、そんなことが気になってしまう。気になって仕方がなくて、未だに「スマイル」を評価できない自分がいる。それが正直な気持ちだ。